2004年11月26日

予想通りの展開か・・・

日刊海燕さんより

対話も感情もない「萌え」のむなしさ

まずは「やっぱり」という印象ですね。まだ実態がわかっていないにも関わらずこういう意見がでることは予想していました。

この方のHPをみると先の佐世保の事件では安易にインターネットのせいにすることを批判していたにもかかわらず、こちらの話題では思考停止しています。おそらくは彼の中で「インターネット」は理解できても、「萌え」は理解できない概念なんでしょうね。そこに不気味さを感じていて、こういう取り上げ方をしているのでしょう。結果として「萌え」=「不気味」=「犯罪」というわかりやすい図式を作り上げることに陥ってしまっている。

「理解」できないものへの恐怖というのは人間誰しも持っています。しかし、メディア自体が「恐怖」をあおり、宮台言うところの「俗情に媚びている」ことにはもううんざりです。彼らにしてみれば存立基盤が部数なり視聴率なりという大衆の注目にあるのですから、大衆が潜在的に望んでいるものを提示しているだけだという言い訳があるのかもしれませんし、それはおそらく本当のことなんだと思います。そしてさらに「俗情に媚びた」報道に加速がかかる。これのループが今のメディアをおかしくしてしまってるのではないでしょうか。メディアは第4の権力としてある以上、商業主義におかされてしまってはダメなはずなのですが、今の日本(アメリカはもっとひどいが)はいきつくところまでいきついてしまったようです。

こうしたメディアや大衆(それは当然自分たちも含む)に対しての批判はもちろんなんですが、そこで止まっていてはダメなんだと思います。それだけではなく、対話をしていかなくてはいけないという海燕さんの意見にはとても賛同します。一介のオタクでしかない僕たちはそうして訴えていくしかないわけですから。

ただそれと同時にちょうど斜壊塵さんのところで話題になっている『オタクがバカにされずかつ、オタクらしさをなくさないでオタクでいる方法』にも注目する必要があるでしょう。言葉による理解の浸透だけでなく、こちら側も外見(単に外見だけでなく、外から見える行動も含む)により相手の知覚を変えていかない限り、イメージを変えることはできないと思います。

そういう意味でオタク自身をとりあげた作品が増えてきたのはいいことかもしれません。それによって、自分たちの姿を多少は客観的にとらえることができるかもしれないでしょうから。

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